終末前夜

スマホからは30センチ離れて読みやがってください。

それなのにタイトルに悩むことはよくあるから困った話だ

 読んだ本はブログに書いてアウトプットしていこうと思った。昨日、『三体』という小説を読んだ。

 

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E4%BD%93-%E5%8A%89-%E6%85%88%E6%AC%A3/dp/4152098708

 

 

 本書に始まる《三体》三部作は、本国版が合計2100万部、英訳版が100万部以上の売上を記録。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作。

 

 あのバラク・オバマ前大統領も激ハマりしたらしい。ボクは数日前に近所の書店に立ち寄った際に『三体』を知った。ボクは入ってすぐの、あちこちで話題になっている(らしい)本が平積みされているコーナーで『三体』の表紙をじっと見つめていたが、「帯にあれこれ書いてある本はそういうことをしないと売れないという証拠である」という森博嗣さんの言葉を思い出してしまったため、とうとう『三体』を手に取ることもなくスルーしたのだけど、しばらくしてから中国のアクション大作『オペレーション:レッド・シー』(2018年)がすごいおもしろかったことをこれまた電撃的に思い出し、それから『三体』が気になり始め、ウェブで検索をかけたら電子書籍だと書店の半額で購入できることを知って、あのときスルーしてよかったと思ったのだった。で、kindleで読んだ。8時間くらいぶっ続けで読んだ。読み終わったのは午前3時を過ぎていた。何かを考えるにはいちばん適さない時間だ。

 

「で、『三体』ってどういうお話なの?」って聞かれると、これが結構むずかしい。映画でも本でも演劇でもなんでもいいんだけど、「なにかお勧めの映画(本、或いは演劇……は、あまり無いかな)ある?」って聞かれた経験は誰にでもあると思う。聞いた経験でもいい。むしろ、誰かについつい聞いてしまう経験のほうが多いんじゃないかな、と思うが、まあ、今はどっちでもいいんだけど、ボクはこの質問を誰かにされるといつも上手くいかなくて、あまつさえ落ち込むことだってある。単純に「あなたのすきな作品を教えてくれ。それを観る(読む)よ」ってんなら楽なのだが、「ふ~ん……知らないな。で、どういうお話なの?」って話へと続く確率は8割という高確率を叩き出す。ありがたいことに相手は興味を持ってくれているはずだ。ちなみに興味がなかった場合は1割の確率で「へえ~。他には?」で、9割の確率でその会話はただちに終了する。相手がせっかく興味を持ってくれているのに「え~と……なんていったらいいかな……ボクは好きですね!」とか「観ればわかると思います」とか「恋愛映画ですね……たぶんネトフリにありますよ。あ、Huluっすか? どうだったかな~……」だと、どうにもこうにもつまらない。というか、こんな説明ばっかりだよ! せいぜい恋愛の部分を戦争とかジブリとかディズニーに置き換えるくらいだろう。いちばんクソなのは「実写ですね」だ。これにはよく共感が得られるんだけどね。

 

 ボクの周りには映画を観るのが好きな人が結構いて、ボクが「なにかお勧めの映画ある?」って聞くと「オーケイ。まずはこれを見てくれ」つって、スマホのメモ帳を開き、そこには今日まで観た映画のタイトルがずらり。すげー。「これとこれはおもしろかったな。これはとにかく長いから時間あるときじゃないときつい。あ、これは知ってる? おもしろいよね。あ、これは俺のすきなシリーズで観たことなかったら是非観てみて欲しい。今のはただの独善的なお願いだから君の要望には関係ないね。ソーリー。慣れてしまえば悪くはないけど。で、どんな映画がいい? いや、どんな気分になりたい? 泣きたい? 笑いたい? 考えたい? 何も考えたくない?」と、ここまで極端じゃなくても、人によって話しぶりに違いはあれど、饒舌になる傾向が強い。そして、必ずと言っていいほど最後には「やばい、これ以上話すとネタバレになる! わかっただろ、あとはもう観てくれ!」という結びになり、ボクはその映画を観ることになるのだ。「観ればわかると思います」は、ここまで来てようやく使っていい常套句なのだろう。

 

 ボクはよく……時々、いや、まあ、たまにだけど、「何かオススメの本(小説)ある?」と人から聞かれる。なるべく万人が共感できる、という意味でなら、そんなのAmazonに聞けヨ(つまり、自分で探せってこと)って思うこともあるのだが、ボクにこの手の、というかボクに限らず、相手はこっちが「本を読む人」だと知っていて「Amazonで検索してもよくわかんねえから本好きのお前さんがおもしろいと思った本を教えてくれよ」という気持ちが少なからずあるから聞くのであって、じゃなかったらボクにわざわざ話しかけたりしてこない。だけど、ボクは、自分がおもしろいと思った本をあまり人には言わないようにしている。ボクはそうすることで、自分のなかで、その本を特別扱いして、ひとり、部屋のすみっこで読み返すときに、その静謐な空間がボクを救ってくれるような心地になるからだ。ある音楽で救われた人が、その音楽をあまり語りたがらないのと似ている。影響を受けた音楽と救われた音楽は性質がまるで違う。それじゃあ、その影響を受けた音楽、つまり、本を教えればいいって話になりそうだけど、ボクは物書きの仕事を細々としているけれど職業作家でもなければコミケで習作を発表したこともないし(コミケのことは改めて文章を認めなくちゃいけない)、そもそも、小説を書いたことがない。小劇場で上演される芝居で使用する拙い脚本を3本書いたことを除けば、一度だけ講談社の文芸誌に2000文字程度の作品が掲載されたことがあるけれど、あれが小説なのかどうか判断はつかない。書評は良いほうだったのだろうが、そこに「良い小説」とは書かれていなかった。家族からは「よくわからなかった」という感想だけもらった。誰ももう一度読もうとはしなかった。ボクは何度も読んだ。今でも読み返す。もともとmixiの日記に投稿した文章をちょっと加筆修正したもので、文芸誌に投稿しようと思ったきっかけも「小説家になりたい!」とか「原稿料が欲しい!」とか「いいから俺の文章を読め!」といったものでもなんでもない。ボクはあの日から今日まで、ネットで書く文章というのは、あくまで自分のために書いているところがある。書かないと死ぬなんてことはない。むしろ書いてない期間のほうが圧倒的に長い。だけど、その期間を含めて、ボクは文章を書きたくないと思ったことはなかったし、何か書きたいなあっていつもぼんやり思っていて、それは勉強も運動も不出来で、おまけに人付き合いも仕事も不器用な孤独な自分に許されたたったひとつの冴えたやり方みたいなもので、だけど、それにも何の価値もないのだとしたら……と思うと実にやりきれなくなり、一切の評価もされないのであればこんな苦悩をしなくて済むのでは、という気持ちから文芸誌に投稿したような気がする。結果としてボクは原稿料を2万円もらった。そんなことは何も自慢にもならないし、大したことじゃない。月に必ず2万円もらえる人がいるのだ。もうずっと、それは続いていた。その程度だ。だけど、ボクは『塵に訊け!』のアルトゥーロ・バンディーニのように、いや、この本を読んだチャールズ・ブコウスキーと同じで、「俺だって! 俺だって!」という気持ちでいっぱいになったのをすごく覚えている。いやいや、バンディーニもブコウスキーも作家になりたくて書いている人たちだから、ボクとは違うのだけど、やっぱりボクはうれしかったんだと思う。それでもボクは自分のために書いている。自分が書きたいものを書いている。もし、ここまで、この文章を読んでいる人がいるとしたら、きっとこう思っているだろう。「おいおい、『三体』は!? 『三体』の話はどこにいっちゃったの!?」オーケイ、まったくもって正しいよ。だけど、それはボクにとっては正しくないこともある。『三体』についてはAmazonのコメント欄でも読んでくれ。リンクは貼ってある。それが全てだ。ちなみにWikipediaの『三体』のページは豊富なネタバレであふれているから、もし、『三体』を読むつもりであれば、どうか気をつけてください。最後まで読んでくれたあなたに、特別に教えてあげる。『塵に訊け!』はボクが好きで好きでたまらない本だ。他にもいっぱいあるが、『塵に訊け!』は本当に好きなんだ。どんな話かって? それはボクの生きてきた歴史が即座に直観したんだよ、「これは!」って。脊髄反射的なもんだ。だから、どうやってそこまでたどり着いたかのを上手く説明できない。ごめんね、でも、読んでくれてありがとう。感謝を。